2015-03-27

冷蔵庫の中とはこの事

穏やかな春の日差しが一変した3月24日に信長巡りで滋賀県東近江市へ行きました。
前日八日市で泊まり、朝ホテルのカーテンを開けると鉛色の空に雪が舞っていました。
でも所々青空が見えるので多少は安して、甲津畑へ向かいました。
車に表示される車外温度が3度、2度と下がり続けます。
目的地は甲津畑から山の方へ入って行きます。
ついに外気温0度。
周囲は雪景色。
ノーマルタイヤなので万が一を考えて山を下りました。
平地へ行っても町なかへ行ってもずっと4度から6度。
山へは昼前に再度行きましたが、やっぱり2度ぐらいまでしか上がりませんでした。
本当に寒い一日でした。
2015-03-20

桂米朝も亡くなりました

昨夜3月19日夜のニュースを見ている時、米朝の死がテロップで流れました。
菅原文太や高倉健の死よりも
米朝の死の方が私にとっては喪失感は大きいです。
大阪人らしく、学校から帰って来ると吉本新喜劇を見て
その後は道頓堀アワーを見るという小学生時代を過ごしました。
その頃から誰彼と言う事は無く、落語は大好きでした。
まだ時代劇がTVで見られる時代だったので
落語に出てくる長屋の様子は十分に想像ができました。
世にいう上方落語四天王では
米朝が一番好きでした。
その次が春団治。
松鶴と小文枝は喋り方が独特でたまに聴くぐらいでした。
大学生の時付き合っていた子が落語好きで
ドライブのBGMは米朝か枝雀でした。
枝雀は落語を身近にしてくれたという点で
本当に素晴らしい人でしたが
いつからか聴くのに疲れ出しました。
だから専ら米朝を聴くことが多くなりました。
社会人になってからは
レンタルレコードから米朝大全集をテープに録音して
寝る時に枕もとでかけていました。
今もCDで復活した同じものを子守歌代わりに聴いています。
何度か米朝の独演会へ行きました。
幸いに地獄百景亡者の戯も観に行けました。
その中で一番印象残っているのは
堺市民会館での米朝一門会です。
2000円で座席は自由。
出演者が米朝・枝雀・ざこば・南光(当時はべかこ)というドリームメンバー。
いい思い出です。
大阪の人ではないのに
最も大阪らしい桂米朝の語り口は
でも永遠に残り続けます。

2015-03-18

カレーうどん食べ歩き

久々の更新です。
2月6日 地元長居の「おにや」
もち入りのカレーうどん。
出汁の効いたさすがうどん屋のカレーうどん。
美味しかったです。
3月8日 アリオ鳳店「さぬき麺屋鳳直販所」
丸亀製麺同様、薄くてぬるい。
ただ丸亀よりは美味しいと感じました。
自転車で50分かけて行きました。
3月17日 「加寿屋四天王寺店」
かすうどんは今まで食べることはありませんでした。
今年になって「秘密のケンミンショー」で南大阪名物として紹介されていました。
自転車で玉造の「TKU」へ行ったのですが、満員だったので天王寺へ戻りました。
谷町筋を何気に走っているとこの店が目にとまりました。
よく車で通るので存在は知っていました。
出汁はゆるくて甘い目なのですが、
コクがあって非常に美味しくいただけました。
ここはもう一度来たい店です。
かすうどんをお持ち帰りしました。
本日非常に暖かい一日でした。
2015-03-06

あっという間の一月

お袋が他界して一月が経ちました。親父はその痛手から完全には立ち直ってはいませんが、私は普段の生活を取り戻しています。
この間、私の中学からの友人二人とその弟が弔問に来てくれました。三人がお袋の遺骨と遺影のある部屋に入るのは数十年ぶりのことです。「ここでよう騒いだなぁ」と話しました。
これ以外にも昔からの付き合いにのある人、近所の話友達らがお花やお供え物を届けてくれました。私が知らないところで―お袋はお茶しながら話し込むという事は無いので買い物に行った時によくやる立ち話で、多くの人たちに愛されていたんだなぁと実感しました。
葬式のあと、親父は悲しみの元になるようなものを次々と処分して行きました。でもちょっとでもお袋を思い出すような物や事柄に触れると、もう涙声になってしまいます。入院中も毎日病院へ行って世話していた親父は、本当にお袋の事が好きだったんだなぁと思います。
昨日、冬の飾り付けを全て片付け終りました。ほんの3か月前にこの飾りを見ていたお袋が今はいないと思うと世の儚さを思わざるを得ません。
しかし人が死んだ後に色々な手続きが必要になることには驚きました。それを知ることができた今回、よい経験をさせてもらったとお袋の感謝しています。本当はこの世に生を授けてくれたことに感謝すべきでしょうが。
ところで先月末、映画「アメリカン・スナイパー」を観てきました。肉親を失った今の身にはこの映画は非常に重く感じました。でも見るべき映画だと思います。
2015-02-02

2月1日は大切な日

この日記は色々な思い出をつづって忘れないようにするために始めました。
昨年の2月1日、メタボを克服するためキャンプインしました。
毎年のようにプロ野球のキャンプインに合わせて
ビリーズ・ブート・キャンプを始めることを私と家内はこう呼びます。
いつも初めの一週間でそれは終わっていました。
でも昨年は気分が違っていました。
1週間経った後もちゃんとやっていました。
一月すると辞めるのが怖くなってやりつずけました。
結果、食事量は同じで1年がかりで10キロの減量しました。
今までのパンツのウェストがゆるゆるになって、
今度ちゃんとサイズのあったパンツを買おうと思っています。
こんな良いことがあった半面、昨年は病気との付き合いがありました。
私は夏ごろ、変な遊びをしていないのに精巣上体炎にかかり、
年末まで下腹部の痛みに悩まされました。
親父は大腸がんの定期検査でまた癌が見つかり、腹腔鏡で手術。
そしておふくろが12月9日に家で転倒して腰と右肩を骨折。
救急車で搬送されてそのまま入院しました。
ただの骨折だったらよかったのですが、
末期の肝硬変であったため、
全身状態が非常に悪化してしまいました。
肝硬変の原因は、40年前の輸血によるC型肝炎です。
肝臓癌も発症していて、それはラジオ波で治療していました。
1月14日、骨折で入院していた病院では肝硬変の治療ができないため
一番お世話になっていた病院へ転送。
おふくろが一番信頼していた女医が再び担当医となっていただけました。
でもおふくろの病状が回復が見込めないほど進行していました。
1月29日、大量の下血。
親父が呼ばれ、次に私が呼ばれました。
消化管からの出血で、恐らく動脈瘤の破裂だろうと言われました。
先にも書いた通り、全身状態が悪化していたので処置すらできませんでした。
私が病院に着いた時、一時は混濁したという意識は戻った感じで
おふくろはちゃんと反応していました。
4時間ほどすると背中に痛みを感じだしたので鎮痛剤を投与。
これで落ち着いたみたいでした。
そのうち孫が到着。
時折、開いていた目も閉じたままとなり、
ゆっくりとした呼吸となりました。
そして日付が変わった1月30日午前12時35分、
本当に本当に眠るように82年と19日の人生を終えました。
葬儀で上映するDVDを作るため私の子供が写真を選んでいました。
私が子供時分それを見た時はそれほど感じませんでしたが、
54歳になって見た若い時のおふくろは本当にきれいな人でした。
写真慣れした表情とポーズ。
親戚中でもノーメイクでこのきれいさは評判だったそうです。
1月31日のお通夜から告別式の翌2月1日にかけ親父は本当にずっと棺に付き添っていました。
午後3時30分。
お骨になったおふくろと対面。
幸いと言うべきか右肩の骨折は治っていませんでした。
治っているのに命を失っていては却って浮かばれませんから。
29日から1日までの3日半、本当に長く感じられました。
昨年中盤から続いた負の連鎖はこれで終りにしてもらいたいと思います。
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